武家での密通は重罪

いつの時代も男女のよからぬ関係は絶えないもの。しかし、江戸時代において密通は死罪でした。武士は密通の現場を押さえたら、その場で不貞の妻と間男を死罪にすることが求められていました。大変に厳しい話ではありますが、武士は自分の命よりもお家が第一。確実に当主の血を残すためには、やむを得なかったのかもしれません。
江戸庶民のスキャンダルもみ消し方法!?
しかし、実際には、不義が露顕してスキャンダルになることを恐れる亭主たちは、間男から示談金を取って済ませることがほとんどでした。その相場は、江戸時代初期は五両、後半は七両二分と決まっていました。現代の金額で、25万円~80万円くらいになります。現代の慰謝料と比べると、かなり安い相場ですね。
大岡越前の「間男代」
この後期の相場である「七両二分」を決めたのは、かの名奉行、大岡越前と伝えられています。大岡越前は、将軍吉宗と諮り、「連座制(罪を犯した者の一族を罰すること)の廃止」など、人権を重んじた政策を多数実行しました。「間男代」についても、「法律通りに処刑していたら大変なことになる。だからと言って取り締まらないと、私的な制裁が横行することになる」と考えて定めたとあります。「間男代」は成文法でこそありませんでしたが、 幕末まで実効法として機能し続けました。
江戸庶民の密通修羅場事情

江戸時代、お家など関わりのない庶民は、密通が露顕してもお構いなし。その場を踏み込まれた女房でさえ、「三下半を突きつけられる(離婚する)ものなら、突きつけてご覧なさい」と居直るのが当たり前…亭主は泣き寝入りすることも多かったようです。
万一離婚になっても、「バツイチ」はあたりまえの時代だった江戸。特に江戸は女の少ない町でしたから、妻はすぐに再婚する…というケースも多々あったとのこと。やもめになった夫の方が歯ぎしりする羽目になったようです。 江戸時代は、形式にこだわる時代でしたが、逆に言うと、形式さえ整っていれば、実質は融通を利かせることも多かったようです。
男女の不義は、武家では重罪。婚暦におおらかな庶民であっても制裁が定められていました。自らが修羅場の渦中に陥らないためにも、正しい心得を持っておきたいですね。
1970年生まれ。1996年より、漫画原作者として活動。2009年、日刊誌連載「日本性史」にて、アダルトライターとして活動開始。
スマートフォンアプリ「セックスの日本史」、女性向けWEBサイト連載「蔦葛物語」「オンナとオトコの日本史/世界史」などの著作がある。