大奥御年寄のスキャンダル

第2の事件簿をご紹介します。江戸城の大奥に仕えた女性のスキャンダルです。江戸城の大奥に「御年寄」という役職がありました。。大奥第二の権力者で、実質的に大奥を差配していたのです。彼女たちは一生を大奥に捧げ、男の肌に触れることなく過ごした…と語られています。 ところがその御年寄である「絵島」という人物が、人気役者であった「生島」との密通を疑われるという、大スキャンダルがありました。これが「絵島・生島スキャンダル」です。
出先のお楽しみで門限破り!?
正徳四年(1714年)1月12日、絵島は主人・月光院(七代将軍家継の生母)の名代として、上野寛永寺・増上寺に、前将軍家宣の墓参りに赴きました。寺参りは、大奥に閉じ込められて暮らす、御年寄をはじめとする女中たちにとって、数少ない発散の場でした。
その帰り道のことです。絵島一行は木挽町の芝居小屋に立ち寄り、人気役者・生島の芝居を見物します。芝居がはねた後、絵島は生島を誘い宴会を催しましたが、その宴会に夢中になった絵島は、大奥の門限に遅れてしまいます。門番と「通せ」「通さぬ」の押し問答をしているうちに、とうとう絵島の門限破りは、江戸中の知るところとなってしまったのです。
利用された過ち
これを利用したのが、絵島ら月光院一派のライバルであった、家宣の正室・天英院一派でした。この些細な門限破りはたちまち大スキャンダルとなり、絵島には生島との密通の嫌疑がかけられてしまったのです。結局絵島は高遠藩に生涯お預け、生島は三宅島への遠島となりました。
当時の瓦版では、絵島生島スキャンダルを面白おかしく書き立てていました。絵島と生島は以前から情を通じており、生島は長持に入って、男子禁制の大奥に幾度も出入りしていた、とするものさえありました。しかし、実際のところはどうだったのでしょうか?
当時の事情がスキャンダルを後押し?

当時の役者は、単なるスターではなく、現在で言うホストも兼ねていました。絵島がしたように、芝居がはねた後、役者を招いて宴会をするのは、普通のことだったのです。それどころか、スキャンダルで書き立てられたように、実際には役者に金銭で都合をつけて関係を持つ男女(江戸時代は同性どうしの関係も盛んでした)もいたのです。このような事情のあった時代ですので、絵島が生島と密通をした、と疑いを持たれるのは、ある意味無理からぬことでした。一方で、絵島は生島と単に密通したのではなく、その関係は真剣なものだった、とする意見もあります。真剣であったがゆえに時を忘れ、門限に遅れたとするものです。
もちろん、絵島の門限破りは、単なるうっかりであり、密通などなく、このスキャンダルは捏造である、とする意見が現在の主流です。実際、絵島の失脚によって、天英院一派は大奥の権勢を握り、次期将軍を吉宗とするのに、大きく貢献しました。 愛欲か、純愛か、濡れ衣か。いつの時代も、スキャンダルの真実は闇の中です。
男女の間での「うっかり」は、あらぬ噂が置きたり、批判の的となることがあります。その後の日常を変えてしまう可能性もあることを忘れずに、関係性よいものとしたいですね。
1970年生まれ。1996年より、漫画原作者として活動。2009年、日刊誌連載「日本性史」にて、アダルトライターとして活動開始。
スマートフォンアプリ「セックスの日本史」、女性向けWEBサイト連載「蔦葛物語」「オンナとオトコの日本史/世界史」などの著作がある。