わたしたちのラブストーリー

あと一歩、踏み出す私
第一話 30代処女 優絵

公開日: 2020/07/21  最終更新日: 2020/12/03
第一話 30代処女 優絵
     

    「優絵。俺と付き合ってくれないかな」

    居酒屋で、ざわめきにかき消されながらもはっきり聞こえた。大学時代からの友人、坂口陽斗からの告白だった。
    「うん、あの、少し考えさせて」
    運ばれてきた焼き鳥の蒸気で、メガネが曇る。けれど私は、はずすことができない。

    私は35歳で、処女だ。
    高校時代、初めて付き合った彼とそういう雰囲気になった時、「意外と胸が小さいんだな」と言われた。彼は照れ隠しのつもりだったのかもしれないけれど、私は頭に血がのぼって、彼を突き飛ばして帰ってきてしまった。
    初めて男の子の部屋に行き、初めて男の子の前で服を脱いだ。私の初めては傷だらけになったのだ。

    傷だらけの初めて

    些細なことだと今ならわかる。でもそれ以来、恋人ができても最後まで至らずに別れた。
    かたくなな私に恋人が愛想をつかしたというのが、正しいかもしれない。
    社会人になってからは仕事に忙殺され、新たに友人や恋人をつくる余裕もなかった。

    唯一続いていた男友達が、陽斗だったのだ。続いていたというより、私の努力で続けていたというのか。
    私もいつしか、もしそういう風になるなら陽斗がいいと思っていた。
    約15年も友人関係を保ちながらも、陽斗は私にとって男の人で、陽斗も気安く振る舞いながら、私をひとりの女性として扱うのを忘れていなかった。

    陽斗にも恋人がいないと知って、会社終わりに通い始めたのが、『ウーマンズライフ』だ。女性の身体や悩みに特化したヨガ教室である。
    30歳過ぎて未経験だと、身体も退化するのではないかと心配していた。

    60分のクラスを終え、トイレでメガネをはずす。
    居酒屋で、陽斗が思いを伝えてくれた夜、私は踊り出したいほどうれしかった。曖昧な返事をしてしまったのは、処女だというのがバレたら、陽斗に幻滅されてしまうと危惧したからだ。

    「優絵って、メガネないほうがきれい」
    振り向くと、河合彩芽が何度もまばたきをしていた。
    彩芽とは同期入社で、年齢は32歳。私より3歳年下だ。偶然、彩芽もここに通っていた。

    「コンタクトにしたらいいのに」
    「メガネのほうが慣れてるし、楽なの」
    慌ててメガネをかける。

    「ちょっとわかる気がする。つい、楽なほうに流れちゃうよね」
    外見も派手で人生を気楽に歩んでいるような彩芽が、神妙な面持ちでこたえた。
    「わかる……?」
    「わかるよ。私だって、いろいろあるからここに通ってるんだもん」
    彩芽にも、女性独特の悩みがあるのだろうか。

    「彩芽、笑わないで聞いてくれる?」

    私達は、『ウーマンズライフ』に隣接したカフェに移動した。
    ハーブティーをオーダーし、店員が去ったところで、口をひらく。

    「私、この間、好きな人に告白されたの」
    「素敵!なんで悩む必要があるのよ」
    「私」

    ハーブティーが運ばれる。私はカモミール、彩芽はローズヒップだ。

    「……私、経験ないの」
    これまでのいきさつを、彩芽に話した。「胸が小さい」と言われたこと。未だ根深いコンプレックスになっていること。
    失笑されるのを覚悟した。あるいは、不審がられるのを。

    「つらかったね、優絵。でも、そいつとやらなくて本当によかったよ」
    「笑わないの?」
    「何で笑うの。女って、身体のこと言われるの傷つくもん。わかるよ」
    つい涙ぐみそうになって、とっさにカップを傾けた。

    涙ぐみそうになる優絵

    「優絵。そしたら彼が初めてになるんだね。ますます素敵じゃない」
    「こわくない? 私、35だよ」
    「こわくて引くような男なら、それまでよ。そんな男なの?」

    ハーブティーの湯気で、メガネが曇る。陽斗は、そんな人じゃないと思う。思いたい。

    「でも不安なの。付き合うって、それだけじゃないけど、でも大事なことでしょう」
    セックス、という言葉をあえて伏せた。

    「セックスは大事だよ。めっちゃ大事」
    いとも簡単に、彩芽は口にするのだ。あまりにあけっぴろげで、かえって気持ちが晴れた。
    「そうだよね」
    「みんな男任せにしがちだけど、それじゃ男だって疲れちゃう。女だって努力しなきゃ」

    うん、と頷く。ちょうどそこへ、すべてのクラスを終えた安永紗季先生がカフェへ入ってきた。紗季先生は確か45歳。スレンダーで引き締まった身体は、匂い立つような女っぽさもある。

    「ねえ、優絵。あとで見てみて」
    と、彩芽が私のLINEにURLを送ってくれた。スマートフォンの時刻は20時を回っている。私達はそれぞれ家路についた。

    お風呂上りにURLをひらいてみると、デリケートゾーン専用コスメのHPだった。
    ソープやローション、バイブまである。体験談も載っていたけれど、ちっともいやらしい雰囲気じゃない。彩芽の言葉が思い浮かぶ。

    「男任せにしがちだけど、それじゃ男だって疲れちゃう」……。
    女性が身体のことを指摘されて傷つくように、男性も同じで、陰ながらがんばっているのかもしれない。

    ボディケアする優絵

    LINEにメッセージが届いた。陽斗だ。
    『明日、会えないかな。そろそろ返事を聞かせてほしい』
    勇気を出さなきゃ、何も変わらない。身体のお手入れすることで、自信が持てるかもしれない。私は、デリケートゾーン専用ソープとパックを購入した。私に告白してくれた、陽斗の勇気にもこたえたかったのだ。

    「優絵。やっぱりそのほうがいいよ」
    会社のフロアで会うなり、彩芽が花のように笑った。私は、コンタクトレンズに変えていた。
    「なんかまだ慣れないんだけど。視界はクリアになったかも」

    今夜、私は陽斗を部屋に呼んでいる。告白の返事と、私のほんの少しの勇気を、わかってもらうのだ。処女だと伝えて、引かれたらどうしようという不安はある。

    「彩芽。身体のお手入れって、心のお手入れと同じなのかもね」
    「やだー、朝からエッチ」
    彩芽が耳打ちし、笑った。

    躊躇していたら、いつまでたっても変われない。
    もし、引かれなかったとしたら。
    努力した私の身体を、そのすべてを、余すことなく見つめてもらいたい。

    著者:森美樹

    埼玉県出身。元少女小説家、小説家。2013年新潮社『R-18文学賞』読者賞受賞。 『主婦病』『幸福なハダカ』『私の裸』新潮社より刊行。他、著書多数。cakesにてエッセイ連載中。
    『アラフィフ作家の迷走性活』

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